ドラマの書き方

楠本幸男

第6回 セリフとは何か?

ドラマの目的は人を感動させることです。ドラマに限らず芸術はすべて、それを鑑賞するものを感動させるのが目的ですよね。感動…なんと安易に使われる言葉でしょう。オリンピックで、選手の奮闘ぶりをを見て感動した人もいるでしょう。砂漠でアイスクリームを食べたりすると、多分そのおいしさに感動してしまうでしょうね。

ドラマが生み出す感動と、日常生活の中で使われる一般的な意味での感動(心が動くと言うこと)がよく混同されます。ここではドラマが生み出す感動を考えてみます。よく芝居の公演アンケートに「感動した」と書かれたりしますが、作る側としては本当にドラマそのものに感動してくれたのかどうか、シビアに判断しなければなりません。アマチュア劇団の場合は出演者ががんばっている姿に「感動」したり、以前には人前で物もちゃんといえなかった人が舞台で堂々とセリフをしゃべっていることに親や友人が感動する場合も多い。それではドラマの感動とは何でしょう。私たちは生活しています。家庭と職場や学校を往復し、その中で人間関係にもいろいろとストレスがある。家庭でさえも安らぎの場どころか、居づらいことも多いですよね。ある雪の降る寒い日に、車でコンビニの前を通りがかると、女子中学生がスカートのままあぐらをかいてアスファルトの駐車場に座っていました。私はそのとき思ったのです。「ああ、あの子にとっては家のたたみよりもあのアスファルトの方が暖かく感じられるのだろう。家庭の蛍光灯よりも、コンビニからもれる明かりの方が明るいのだろう」と。このコラムを読んでくれている人はやはり高校生が多いのでしょうか。するとやはり友人関係のこと、他人が自分を認めてくれないとか、受験のこととか、進路の悩みとかありますよね。こういう事柄はよく生活実感と呼ばれます。この生活実感から生まれた問題意識と、ドラマの内容が共鳴しあって生まれるものが感動だと思うのです。逆に、ドラマを作る側から言うと、自分の生活実感を元に、どういう投げかけをしたら観客の生活実感と共鳴し、感動を生み出すことができるかをたくらまなければなりません。私の場合は、『海王』という、太地町の古式捕鯨を描いた作品で「人には決断せねばならぬときがある」といったテーマをたてました。その頃私は、いろいろとてきぱきと問題を解決していかねばならないのに、あれこれ迷っていてばかりで、決断できない自分に嫌気がさしていました。この生活実感を元に、名門の出だが決断のできない羽刺(鯨に銛を打つ人)と、地位は低いが腕がたち決断の早い若者を対立させ、物語を組みたてたのです。

ドラマは未来の展望が見えるものでなくてはならない。しかし、安易な「展望」には観客はしらけるだけです。不条理演劇の場合は少し違うのでまた、どこかで改めて述べたいと思います。悲惨な状況を描いていても、最後にわずかであっても光が見えるものでなければ感動を生み出すことはできない。なぜなら、芝居を見に来る人は現に生きている人々で、明日からも多分、生きる人だからです。つまり、「つらいことやいやなことがあって生きていこう」という前提が作り手と受け手との間にあり、これが受け手に感動を生み出す「素(もと)」だと思うのです。

感動の素であるひとすじの光を見つけたい。しかし、無理矢理「光」をつくると客はしらける。このせめぎ合いに劇作家はいつも悶々とするのです。

(2008.9.18)

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