ドラマの書き方

楠本幸男

第11回 ラストをどうするか?

「まるで、人生をまだ一日も生きていないのに、青春だけは終わってしまったような…」

ラストシーンのあり方は、これでなければならないという規則はありません。作家の個性の数だけ、ラストシーンの型があるといえるでしょう。いずれにせよ、観客が胸にストンと落ち、「ああこれでおわりだ」と納得できる終わり方が必要です。一つの方法は、ラストの決めぜりふで終わるという方法。芝居全体のテーマや、内容全体をあらわすような台詞で終わるのです。主人公の未来を暗示する台詞で終わるというのも方法です。いちばんすっきりしたラストになりますが、その台詞が思いつくかどうか、これはなかなか難しい。説明的な台詞になってしまうと、肝心のところで芝居が台無しになってしまう。

私が印象に残っているラストがアルブーゾフ作、「ターニャ」のラスト。これは1938年に発表され、アルブーゾフが30歳の時の出世作。1930年代のソビエト連邦、モスクワとシベリアが舞台で、計画経済のもと活気と希望にあふれている国の姿が背景にあります。ソビエト型社会主義が崩壊し、どこもかしこも新自由主義で浮かれている今、当分日本で上演されることはまずないでしょうが、いずれまた見直される時も来るでしょう。ソビエト連邦版「人形の家」とでも言うべき作品で、人間がよく描かれていて、魅力的です。

さて物語です。

新婚のターニャは結婚と同時に医学校をやめ、夫、ゲールマンとの愛にのみ生きている、世間知らずなお嬢さん。しかし、夫が浮気をしているのを発見し、彼女は夫の元を去る。ターニャのおなかには子どもが宿っていた。彼女はその子を産み、子どもを生き甲斐に生きていく。しかし、その子もジフテリアで死亡、彼女は絶望の淵にたたされる。

2年後、勉強を再開し、医者となった彼女は、金鉱の派遣医として活躍していた。ある日、ターニャに思いを寄せるイグナートフの家に招かれたターニャに、「子どもが病気で、往診して欲しい」と連絡が入る。自分の担当地区ではなかったが、他に行ける医者がいない。折しも猛吹雪で、数時間かけてスキーで行く以外に交通手段もない。ターニャは悩むが、結局、スキーで出かける。やがて雪の中、目的地近くで倒れているところを発見されたターニャは、助けられ、子どもの病気を治す。彼女は英雄としてたたえられる。その子どもは偶然にも、ターニャの別れた夫、ゲールマンと再婚した相手との間にできた子だった。 やがて子どもの父親に再会したターニャは、ゲールマンが長らく心の中に描いていたような人物でなかったことを知る。ターニャは心の中で決別を告げる。イグナートフとの再婚が暗示されるなか、ターニャはだれに言うともなくつぶやく。「…なんだかふしぎはほど、自由な気持ち、まるで、人生をまだ一日も生きていないのに、青春だけは終わってしまったような!いとおしい、おかしな青春…」。

(2014.01.01)

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